読書記録2

続き

 

第1章 宗教改革

 

11-15世紀まで、ドイツには帝国法・慣習法・教会法・共通の言葉と文学によるまとまりはあったものの、政治的には侯国 Herzogtumから小さな辺境伯領 Grafschaftまで、様々な規模の独立した領国に分裂していた。領国のほとんどは独立した法制度・官僚制度を有しており、神判や雪冤宣誓のような形だけの証拠ではなく、rational proofを導入した近代的な刑事裁判や民事裁判の制度をもっていた。もっとも15世紀末からは皇帝の権限強化も本格化する。ドイツではマクシミリアン1世は平和令 Landfriedeを公布し、帝国裁判所を設置した。西暦1500年代の特徴は、皇帝と諸侯・諸侯・教会と年の対立がドイツで特に激しくなった時代であった。

問題が表面化するきっかけとなったのは「免罪符」の販売である。ルターは免罪符への異議申し立てを皮切りに、革新的な主張を次々に行った。

・教会の持つ立法権司法権・行政権のすべてを廃止すべきである。

・両国論 教会は聖書が支配する天上の国に属しており、罪と死が支配する地上の国に教会は存在しない。人間は自分の力で天上の国に行くことはできず、髪がそれを可能にしてくれるのを待つしかない。

・地上の国の支配者は不正を許さず、悪人を罰し、正義を守らなければならない。

 

ルターは当初法制度自体が不要であると考えていたが、ミュンツァーノ農民蜂起は法制度の必要性を痛感させる出来事であった。ルターと領国君主の協力で新しい法制度が作られるようになり、それが聖俗の世界を支配することとなった。

プロテスタント派の領国・都市では1530-40年代に「法令 Ordnungen」が交付されてカトリック教会は閉鎖され、断食、懺悔、成人崇拝、免罪、死者のためのミサ・托鉢修道士への献金などは禁止されるようになった。また、領国君主や都市は婚姻・家族・不道徳な行為の禁止・公教育・貧者救済などそれまで教会が処理していた世俗の問題も処理するようになった。

領国君主・都市は新しい法制度を導入したように見えるが、その原型は教会法にあった。教会法が世俗化されると、今度は世俗法が教会法に変わって神聖視されることとなった。

「ドイツ革命」によって、領国君主とその役人が支配者となった。これにより、身分制国家は領国ないし宮廷国家にかわっったのである。農民や職人のような低い身分の出身者が大学教育を受けて役人として活躍するようになり、プロテスタントの領国君主は教会財産を没収で手に入れただけでなく、独自の課税権も手に入れた。

 

読書記録1

今日からこのブログに読書記録をつけます。できれば毎日更新したいと思っています。

今日は、ハロルド・ジョセフ・バーマン著(宮島訳)『法と革命Ⅱ-ドイツとイギリスの宗教改革が欧米の法制度に与えた影響-』(2010年)の紹介をします。とりわけ、自分が興味を持っている6世紀の「ドイツ革命」に言及した部分の要約をしてみます。

 

序論

本書の分析対象となるのはルターの宗教改革に端を発した16世紀のドイツ革命と、カルバン派による宗教改革に端を発したイギリス革命である。この二つのかくめいは、ドイツとイギリスの政治制度、社会制度を根本的に変革した。

まず、ドイツ革命について。ドイツ革命の原因は、グレゴリウス7世によって開始された教皇革命で確立された教会の権限が腐敗したことにある。ルターは、1517年に教会裁判が無効だと宣言した。彼の主張は、神の前では聖職者ですら「一人の信者」にすぎず、信者は神の言葉を記した聖書に対してだけ責任を負えばいい、というものである。ルターによれば、教会に立法権はなく、立法権は君主やその役人など「お上  Obrigkeit」のものとされた。

ルターは「両剣論」に変えて、「両国論 two kingdoms theory」を主張した。ルターは「天上の国」と「地上の国」を対置した上で、「地上の国」では君主やその役人の作る法律の権威を重視した。ルター派の諸侯たちは、それまで教会の権限とされていた事柄を法令として交付していった。教会令、婚姻令、規律令、学校令、救貧令がそれにあたる。これらの作成にあたったのはメランヒトンを代表とするルター派神学者たちであった。

メランヒトンたちは、スコラ学者の分類法とは全く異なる分類法を持って法を整理した。彼の用いた分類法は、のちにjus commune(ローマ法・教会法)を論じる際にも採用されることになる。

メランヒトンの分類法は、まず法律をすべての学問分野に共通する法オフに従って整理した上で、十戒に関連づけた。下位に位置付けられた法律が上位の法律の趣旨に従って解釈されるようにし、最終的には聖書に従って解釈されるようにしたのである。このようにして、聖書を法源とする刑法解釈学が形成されたのである。